東日本大震災における検視活動
2011年3月11日に発生した東日本大震災に関する報道や、各種機関による報告などで被災地の情報は広く知られているところであるが、我々、検視・検案に関わる医師や警察関係者による活動は周知されているものではない。
被災地での検視活動に参加したので、その一端を紹介する。
日本法医学会は、阪神神戸大震災及び新潟県中部地震での活動経験と教訓から、東日本大震災発生直後から対策委員会を設け、担当理事を含む検視チームが直ちに出発するとともに、会員に対して検視活動への出動準備を指示し、参加要請と人員調整を開始した。
混乱の中、13日に被災県警察本部長からの正式な出動要請文書が出され、15日には警察庁長官名での要請がなされた。この間、情報及び伝達錯綜のため、日医や県医師会からも検視活動への出動準備が行われたが、同日夕刻には、検視活動は法医学会が主導することでまとまったようである。
第一陣からは、交通網・連絡手段ともに寸断されており、電気や水もない状態で、移動は警察車両でしかできず、物資不足と寒さに関する報告であった。続いて被災各県に10名ずつ検視医が投入されるローテーションが組まれ、移動日を含めて8日間の検視業務をこなしていくことになった。警察の検視班は、県警単位で編成され、8から10人程度、2週間交代で陸路(愛媛からも水・食糧持参、車両で1500キロ走って)で投入された。
そんな中、二日間現地で検視に携わり、160体の検視をしたという関西の某県医師が記者会見を開いていたが、どうやって現地に入って、一体20分程度かかる検視を、日没までの時間でして、どうやって帰ってきたのか、甚だ疑問であった。
現地の法医学教室、警察医会の諸先生の活動に加え、効果的な人員投入は、全国の大学法医学教室医師を略総動員して順調に行われた。最終的に法医学教室所属の医師は今回の検視活動に概ね全員が協力したとみられる。
そして、3月30日夜、愛媛大学法医学教室で司法解剖執刀中に出動要請が入った。4月5日から12日までの8日間、宮城県への派遣が内定したが行けるか、との問い合わせである。その頃、父が肝臓癌の脳転移で意識状態が不明瞭になってきており、稍逡巡したが受諾した。
私は開業医であるので、当然、診療は休止することになる。急遽患者さんたちに8日間休診する旨周知しようとしたが間に合わない。留守部隊に「投薬も注射もできません」と断って謝るよう指示し、父のことは身内に託して4月5日伊丹経由で空路山形入りした。
「警察庁派遣 宮城第5班 愛媛大学所属」と名札には書かれていた。北大の寺沢教授も空路到着したようだが、他のメンバーは東京の警視庁前から警察のバス(機動隊が使う青いバス)に揺られての山形入りであった。
なぜ山形か。安全確保のため、宿舎は山形市内で、そこから毎日宮城に通うのである。
山形―宮城は高速道路で1時間の距離ということであったが、これが結構大変であることに後で気づくことになる。
宮城5班のメンバーは次のとおりである。美作(現東北大学教授)、寺沢(北海道大学教授:故人)、西村(徳島大学教授)、大澤(東海大学教授)、高橋(東邦大学教授)、塚(現金沢大学教授)、安慶田(沖縄医療センター)、高橋(現琉球大学教授)そして私の9名。
到着後、前の班からの引き継ぎ等のミーティングがあり、諸連絡・注意事項伝達、事務用品引き継ぎ(朱肉、定規、ボード等持っていっていないもの、現地にないもの等多数)を受け、夕食後解散、すぐに就寝し業務にそなえる。
初日、朝は6時30分から朝食をとり、7時に山形県警のバスで宮城県警本部に移動する。高速道路は途中蔵王付近を通り、残雪がまだあることで北を実感する。自衛隊の隊員を乗せたバス多数や、埼玉県警・警視庁のパトカーが20台以上赤色灯を回しながら追い抜いていく。(昔見た刑事ドラマの様)資材を満載したトラックも走っていく。高速道路の通行規制は数日前に解除された。というわけで、仙台インター手前から渋滞である。仙台市内も渋滞がひどく、結局1時間30分を要した。(これが毎日、往復ある)
宮城県警本部で簡単なミーティングがあり、東北大学舟山教授の出迎えを受ける。ここで各人がその日の現場を指示され、宮城県内8ヵ所に散っていくことになる。一人で現場を指揮できる者、という参加要件の理由が分かる。
1日目の現場は、石巻市の飯野川高校体育館であった。沿岸部ではないが、旧北上川を遡った津波で被害を受けたとのことである。移動に2時間30分を要した。新潟県歯科医師会のメンバーとご一緒した。彼らも開業医で、診療所は閉めてきたとのこと。5日交代で、仙台の歯科医師会館で寝泊まりしているとうかがった。尚、仙台市内は風呂が使えないとのことだった。担当は地元宮城県警で、東北弁が飛び交っている。到着後、早速検視を始めるが、震災後約一カ月を経過しており、この地区での遺体の収容数は減ってきているそうである。運ばれてきたご遺体はいずれも瓦礫の下や田んぼの泥の中から発見されたもので、全身泥だらけである。搬入・捜索に当たる自衛官も泥まみれで黙々と任務を遂行している。水道が使えないので、バケツの水を手ですくってかけ、着衣を脱がせ、その特徴を記載し、全身を清拭した後、検視の所見をとっていく。何れも顔面のうっ血・チアノーゼが強く、爪床もチアノーゼを呈し、鼻腔・口腔内には土砂及び泥状物が充満し、眼瞼・外耳道も同様であり、死後一カ月を経ているため、微細泡沫こそ確認できないが、溺水を死因とするのに十分な所見であった。外表には不定な方向からの擦過創や生活反応を伴ったり伴わなかったりする骨折がみられ、泥流に巻き込まれて溺死した様子が見てとれた。
死後約一カ月を経ているにもかかわらず、死後変化はさほどでもなく、DNA鑑定のための血液採取(通常は心臓血を用いる。私は鎖骨下静脈をよく使う。)も派遣期間中の全例で可能であった。これはご遺体が泥の中など外気に触れない場所にあって、気温が低かったため、と考えられる。改めて教科書に出てくるCasperの法則(死後変化の進行度は、空気中:水中:土中=1:2:8)を勉強させられた。
我々、法医学をやっている者は、死後変化の強いご遺体を診たりした後でも食事をするのは平気である。お昼になれば腹も減る。というわけで、昼食休憩に入る。昼食は警察から支給される菓子パン(甘いの)2個と水1本。食事にならない。翌日からはおにぎりを買っていくように心がけ始めるのであるが、当時は山形市内でも物資が不足し、買いそびれることもあった。(仕方ないのでなぜか残っていた冷やし中華を持っていったこともある。)物資といえば、物流はある程度回復してきており、山形市内はアマゾンの配達が使えたので(PC持ち込んでいたのでネットでOK;便利な世の中になった)重宝した。
午後は帰りの渋滞があるので早めに切り上げ、翌日当番の先生に託すことになっていた。19時までに全員が宮城県警本部に戻り、ミーティングを経て山形に戻る。帰りついたら20時30分。夕食をとりながらミーティング。各々の地区状況、ご遺体の状態の報告など済ませ、シャワーを浴びて就寝。
2日目は旧角田女子高体育館。県南部で、赤貝で有名(だそうだ)な、閖上浜が近くにある。移動に使う車両は毎日変わる。運転手も同様で、今日は地域課(交番のお巡りさん)の若者2名が私一人を送ってくれる。普段、警察車両での移動中はラジオが流れていることはないのだが、今回の活動中はずっと流れていた。気を遣ってくれていたのだろう。今日の現場も水道はない。工事用の発電機付きの照明が耳に障る音で呟いている。
検視班は滋賀県警と大分県警が担当している。県警ごとに流儀も違えば、手早さも違う。指紋の採り方までも個性が出てくる。原発で使っているのと同じ防護服を着た3人組が掃除専従部隊となって活躍している。後で聞いたら、警察学校の生徒だそうである。御遺体の状況は昨日と同様であるが、アルバムを抱いた女の子、老女と手をつないだまま発見された幼児などが運ばれてきており、少しでも身元確認の手がかりになるように特徴や所見を記載した。
この地区は津波の襲来が午後4時頃だったとのことで、一度避難した後、自宅に何かを取りに帰ったために被災した方が多いと伺った。地元歯科医師会の先生方に歯科所見のとり方や記載方法を教えて頂いた。帰りは防波堤の役目をした仙台南道路を通ったが、海抜2メートルの仙台平野に押し寄せた津波の被害を目の当たりにすることになった。
3日目の早朝、父の具合が悪いと連絡があり、日赤に救急搬送するよう伝え、旧石巻青果市場へ向かうバスの中からBSCをお願いした。
この現場は遺体収容数が多いため、寺沢教授と2名で作業する予定だったが、女川に人手が必要とのことで、一人で対応することになった。渋滞のため移動に3時間近くを要し、現地到着後直ちに検視を始めるが、京都、鹿児島、香川、大阪、静岡の各県警チームがすでに20体近く待機させており、一時繁忙を極めた。最盛期には600体の遺体が検視待ち状態にあったと聞く。検視作業は順調に済んでも、死体検案書を作成する作業があり、どう考えても160体の検視を日中だけでこなすことは無理である。先に述べた関西の先生方は一体どのようなやり方をされたのだろうか?
石巻の町並みは報道されており通りの惨状であった。車両内から発見された夫婦、幼稚園の制服を着た女児など、血液採取及び爪の採取にも配慮しながら所見をとる。河川で発見された御遺体は多少死後変化が進んでいた。
その夜、寝入りばなに大きな余震があり、いきなり停電し非常灯が点った。窓からみると信号も消えている。こらあかん、と、あっさり諦め寝てしまう。翌朝も非常灯がついたままで、信号も消え、エレベーターも止まっている。朝食は無いものと思って定時にロビーに集まると、なんと朝食はサーブされていた。フロントも蝋燭の灯りでコートを着て業務をこなしていた。
4日目は南三陸町のベイサイドアリーナまで行くことになった。遠い。山間の狭い道を下っていくと、街がない。漸く通れるほどに道路端に寄せられた瓦礫の谷間を抜けていくと、テレビでみた病院や、骨組みだけになって乾いた海藻が引っかかって風に揺れている防災本部を右手に通り過ぎ、自衛隊車両と譲り合いながら丘を登っていくと、被害に遭わなかった住宅街の向こうに目的地が見えてきた。
教科書でしかみたことのない空襲後の焼け野原のような、建物の土台と瓦礫しかない丘の下とは別世界が広がっている。報道各社の旗を付けたタクシーが駐車場にあふれ、トレーラーの荷台に据えられた巨大スクリーンでは民放の番組を放映し、ボランティアは炊き出しの呼び込みの声を張り上げ、なんと焼き鳥もある。大型の発電機が唸り、某有名医療チェーンの救急車が3台控えている。野球のグローブを持った子供たちも走り回っている。聞けば、プロ野球選手が慰問に来るとのこと。よくわからない宗教団体の天幕も設営されており、祭りが行われているようだった。
検視業務は粛々と行われた。死後の焼損とみられる御遺体があった。帰途、道端に車を止め記念写真を撮っている医療チームに出会った。
5日目は宮城県警察学校。ここは電気も水道も復旧していた。被災した警察車両が集積されており、錆が目立つ時期になっていた。この日は自衛隊や米軍も動員した一斉捜索が行われた。海上漂流遺体の搬入があった。
宿舎では、私の出身大学から派遣されたと覚しき一団が居酒屋で大宴会(多分打ち上げ)を繰り広げていた。最終日を控え、大澤教授と高橋教授の3名で研究面での打合わせのため一寸一杯と思ったら、「ビールは売り切れてしまいました」とお店の人に告げられたが、「酒でいい」と一言。一週間ぶりにエタノールが入った。
6日目、検視業務は今日まで。東松島の小野地区体育館も渋滞がひどかった。警視庁の担当で、昔話ができた。死後変化の進んできた御遺体が目立つようになった。検視場所と遺体安置場所はブルーシート一枚で分けられているだけなので、ご遺族の啜り泣きなやお経が聞こえてくる。発見状況や着衣の特徴も併せて記載する。ミサンガという言葉を初めて知る。米軍のシャワーコンテナをみてMASHを思い出す。
宿舎に帰投後、次のチーム(慶応、千葉、長崎等)に引き継ぎをして、昨日の居酒屋で慰労会を行う。6月の法医学会総会(福島)での再会を約束して解散。
翌日、空路で東京へ。秋田大の美作教授は、秋田県警が迎えに来て車で連れて行かれた。当初は警察のバスで警視庁まで送ってもらう予定だったが、一斉捜索のためにバスがない、という事態に陥り、JAL臨時便で移動。乗り継いで午後松山到着。その足で日赤へ。辛うじて会話は可能だった。そのまま午後の診療をこなし、夜には司法解剖が入ったため愛媛大学へ。(翌々日もありました。)2週間後に父は他界した。
検視の状況についてまとめると、
①死因は津波による溺水と判断できた。
②低温、泥中などの死後環境のため、死後変化の進行していない御遺体が殆どだった。
③生活反応を伴う損傷と伴わない損傷が併存していた。
④個人識別のための採血は全例で可能であった。
⑤検案書に記載する際、死因の種類は不慮の外因死・その他、即ち8になる。(死因が溺水であれ、焼死であれ、胸腹部圧迫であれ、地震など,自然の力への曝露による死亡は,ICD-10で
X30~X39に分類されるため)
⑦警察庁からの謝金・日当は法医学会の総意として辞退した。(今回は大学所属扱いであったため異存は無いが、今後、開業医の協力を要請する場合には問題になるだろう。)
個人識別は、DNA鑑定を行うため、採血と爪の採取を行った。発見場所、発見された状況、着衣の検査、所持品、手術痕や身体的特徴も検案書のその他とくに付記すべきことがらの欄に出来るだけ記載した。歯科医師会の先生方が組織的に協力しており、大活躍されていた。6月の段階で、約99.6%の御遺体の引き渡しが出来ているとのことである。
着衣についてNHKがアンケートを送ってきた。厚着をするために避難が間に合わなかった方々がいるのではないか、という主旨の設問であったが、宮城ではそういった状況はなかった。
今回の派遣に際しいろいろお世話頂いた宮城、山形の両県警、愛媛県警、警察庁の皆様、松山赤十字病院の諸先生ならびにスタッフの方々、留守中司法解剖をお願いした植田名誉教授に感謝いたします。